天賦の才

なぜ俺は音楽をやり始めたのか。

そんなこと俺は知らない。
ただ、天が与え賜うたものだからだ。
自分が選んで興味を持ったのではない。なぜかある日俺は音楽に興味を持つことになったのだ。

ではなぜその音楽を続けるのか。

それは、天賦のものは、天下のために使わないといけないからだ。

 

人を楽しませる、喜ばせる、ということが大好きな人間なので、その為のツールとして、音楽というのはとても有用だった。

ふざけた歌を作っては、しょっちゅう家族に聞かせていた。

単純に「好き」という気持ちがある時点で、素質があるのだと思う。幸い、自分の親や周りを取り巻く環境は、その「好き」に立ちはだかるものでは無かった。

ギター片手に家の中で叫ぶように歌いまくっていた自分を静観してくれていた家族には感謝が尽きない。

俺はその自分が持っているものを、自己実現のツールにしたくないのだ。

多くの「ミュージシャン」と呼ばれるような人たちは、音楽を、使い道を自分の欲求を満たすために使っている。

幼い頃の自分も、「楽しいから」とか、承認欲求のツールとして音楽を使っていたかもしれない。
「好きだー!」とか「俺の話を聞いて!」とか「どうだ!よくね?」とか。

だが、そんな個人の自己顕示を受け取ったところで、「明日から頑張ろう」なんて誰も思わないわけだ。

仮に他人の失恋話しを聞いて生きる活力が得られる、と言う人がいるのだとしたら、その人は何か違うものを患っているとしか思えない。

音楽をする理由に、
「かっこいいから」「モテたい」
というのはわかりやすい。自己実現。
そしてその欲求は決して満ちることがない。

有名になっても、名声を得ても、命を絶ってしまうアーティストがいる。

永遠の愛をいくら歌っても、出会って別れてを繰り返す。

感情を音で紡いでも、「好きだ」といくら叫んで見ても、あれほど気になっていたり好きだった人が、3年後にはその事実を自分で疑ってしまうほど、なんとも思わなくなっていたりする。

結局、誰か個人の自己実現に、普遍的な価値は無いのだ。

 

しかし。

それに比べて、ゴスペルを含め、奉納する音楽というのは圧倒的に違うパワーを秘めている。

これぞ音楽の正しい使い道だとも思う。

天が与えたものを、天に返す。

ミュージシャンだって、何一つ自分で作り出していない。

人間が一から作り出せるものなんて、何一つない。
エンジニアも道具がないと何もできないし、大工さんだって、森に木が生えていないと仕事ができない。ミュージシャンもそう、我が物顔で所有していいものなどない。

だから、天からの賜物を、自分の欲求に乱用させちゃいけない。

例えば、好きな女の子へ向けた主観的で刹那的なラブソングのような歌は、中学生まででやめた。ましてや失恋ソングなど作りようがない。
彼氏にフラれて傷心している女の子の気持ちを煽るだけ、
良くて「いい歌だね」という感想をもらうだけで終わりだからだ。

自分の小さいエゴのためではなく、天下のために使ってこそ、天も才能の与え甲斐があるというもの。

だから、自分が完成させる作品が、ただの刹那的な感情を吐き出しただけのものであったり、ネガティブなメッセージを孕むのは、絶対に嫌なのだ。
聴く人の感傷的な気持ちに寄り添ったところで、なんの価値があるのだろう。
「分かる、染みる、つらい・・・」と共感されたところで、何を生むのだろうか。

聴く人が希望を見出して、自分だけでなく周りも明るくしていけるようなエネルギーのある作品を作っていたい。

音楽に限らず、自分が持っているものは、そのように使っていきたい。
まるで先人たちが、次の世代である僕らのために自己を顧みず命を懸けたように。

 


心からやりたいと思うことなんでしょうか。
それを「やりたい」と思うのはなぜでしょうか。
自分の欲求をとことんまで追求すれば、
皆、同じところに行き着きます。
「自分は自分のことを愛している。
そしてそれと同じくらい、皆のことも愛している」
ということに。
その性質は、天とか神様が作ったもの。
天とか神様というのは、もともと愛が好きなんですね。

超訳 吉田松陰「覚悟の磨き方」より

リユニオン焼肉

タイトルを書きながら、あまりに強烈な文字の組み合わせすぎて鳥肌が立った笑

リ・ユ・ニ・オ・ン・焼・肉

まあ、2年ぶりに再会した友達と焼肉に行ったのだから、こう書くしかない。
(そんなことない)

仙台に住んでいた頃、ゆるーいバンドをやっていて、ps(ぷす)って言うんだけど、そのバンドで一緒にやっていた仲間が東京に遊びに来るということで、先日2年ぶりに会った。

一緒にバンドをやっていた弟のナイスアイデアで、スタジオに行った。
スタジオのロビーで再会した彼は相変わらず背が高かった。
「なんで背高いねん」と言ってダル絡みしようとしかけたがシカトされると思ってやめた。

冗談か本気かわからないが、事あるごとに俺のことを変人奇人扱いしようとする節がある。
俺より狂っている人はいくらでもいるのに。
というか、俺は至極まともだよ。

ただこの前もある人に「松岡くんって不思議くんだよね」と言われて、
「全然違いますよ」って言ったら
「そういう人は自分で認めないから」と吐き捨てられた。

刑事に自白を強要されている冤罪で捕まった容疑者みたいな気持ちになった。

それはそうとして、俺らは2年ぶりに絡みながら音を奏でた。
一緒にやる事なす事全てが2年ぶりだった。当たり前か。

psはオリジナル曲も3曲ほどあって、それらを演奏したり、よくやっていたカバー曲を合わせたりした。

Like A Brother という、バンドと親しくしてくれていた方が詞を書いてくれた歌があるんだけど、あれはやっぱり演奏していて楽しい。

 

終わったら焼肉屋へ。

家の近所にある、みんなが美味しいと言うお店で、やっぱり美味しかった。

豚の声帯の部分と、声帯の周りの部分が美味しかった。
カルビもいける。

食べ放題じゃなかったけど、見た感じと違って俺は意外と食えない人だから、量もちょうどよかった。

 

久しぶりにあったけど、何より元気そうで良かった!
友達と言うのは良いものですな。
友達とは、愚痴を聞き会うよりも、叱咤激励しあえる仲でありたいと思う。

お互い頑張ろう!

鳥、海、空、俺

「The Wasshoi が好きで、落ち込んだ時によく聞くんだ」

と◯◯が言っていたよ、と又聞きした。

嬉しかった。

褒め言葉というほどでもないが、このような情報が入ってくると、驚くほど励まされる。

誰かの励ましになったり、希望になるようなメッセージを含んでいないと、何事も歌う意味がない。

誰かの気休めとか感傷に浸るための道具になりたい訳じゃない。

夢見心地なやつを叩き起こし、泣いてるものには寄り添い、笑うものと笑う。
そんな音を奏でていたい。

鳥の視点で見て、海のような広い心を持ち、空のように大きく考えながら、等身大で生きます。

仙川 Kick Back Cafe のタピオカとジャズセッション

令和初ドライブ①「音楽」

観光地巡りに励んでいる松岡はまたひとつデビューさせて頂いた。

どこかと言うと、それは江ノ島と鎌倉と逗子!

どこも初めてだった。

梅雨シーズン真っ只中で天気が心配だったが、夜の解散直前まで一切雨も降ることなく、むしろ晴れたくらいで、存分に観光を楽しめた。

8時半新宿集合で出発。五人揃うはずが一人寝坊と言うことで四人朝マックで待機。

そして9時半、もう一人を拾っていざ出発!

この辺の写真が無い。

やっぱりドライブには音楽が欠かせない。
それぞれ思い思いにケータイにAUX端子をぶっ刺して音楽をかけていた。

洋楽好きが盛り上がること間違いなしのイマジンドラゴンズをかけ、
KPOP好きが「ええ、いいの?」となぜか遠慮しながらBLACKPINKをかけ、
助手席に座った音楽通とは言えない奴が定番曲をかけまくった。

音楽というのは不思議なパワーがある。
アートという言葉では説明しきれない。

音楽はメッセージでありコミュニケーション。
普段絶対に言わないようなこともメロディに乗せると言えてしまう。

僕らのドライブデーは音楽に彩られて始まりました。